私が考えるアート。
アートアート言ってるけど、アートってなんだ。どこに向かってくんだ。
私なりに考えたこと、那珂湊でアーティストさんやスタッフのみんなと話したことを、ちょろ。っとまとめてみよう
■そもそもアートってなんだ?
臼田さんはこう言ってた「アートとは、目に見えるもの以上に、目に見えない何かが飛び込んでくるかどうか」
そうだ、そうなんだ
例えば、私がこの夏に大好きになった野村在さんの「soul reclaim device」
はたからみれば、この作品は、30分に1度、上部に設置されたプリンターから、下部の水が張られた水槽へと、インクが垂れていくだけ。ただそれだけ。
だけど、私たちはこの作品と向き合う時、ただそのぼやけていくインクという「目に見えるもの」を見ているわけではない。その奥に隠された、作家の思い、思考を汲み取ろうとする。かんがえて、「目に見えないもの」を探すのだ。それが、現代におけるアートだ。
この世で最初に生まれた現代アートは、マルセル・ドゥシャンが作った「泉」という作品だ。
男性用小便器に、「R.MUTT」と署名しただけ。彼はこれを「アート」として、世に発表した。
でも当時、世の中はそれを受け入れようとしなかった。それどころか、批判さえもした。
なぜか。それは、その時代の人々のアートに関する評価軸が「目に見えるものすべて、それだけ」だったからではないだろうか。
目の前の風景を、物体を、忠実に表現すればするほど、それは評価された。そういう世界。
でも、デュシャンは、そういう世界に一石を投じた。私たちの思考を、「目に見えないなにか」に至るまで引き伸ばしたのだ。
現代に戻って、例えば、私の好きな李禹煥
彼の作品は、非常にシンプルだ
(極端に平坦な言葉を使うとすると)大きな板と石だけ。これが作品
この作品が、今、世界中で評価を受けている。
「現代」だからだ。
今の私たちはもはや、これを「大きな板と石」として捉えたりはしない。彼が実現しようとした、「つくることの抑制」や「余白の美学」をこの作品から「読み取る」のだ。
目に見えない何かを読み取る。それが現代のアートなのだ。
デザインとは、圧倒的に違う。
■アートと「インスタ映え」
アートと今流行りのインスタは、非常に親和性が高いと感じている。
例えば、21世紀美術館のレアンドロ・エルリッヒの「スイミング・プール」には、毎日大量に人が押しかけて、作品と一緒に写真を撮るために長蛇の列を作る。ご存知の方、実際に訪れた方も多いのではないだろうか。
この作品といっしょに撮る写真は、とてもカラフルで、エネルギッシュで、ポップで。まぁ要するに、「インスタ映えがする」。だからみんな来る。10年前には考えられなかったことだろう。
そういう意味では、インスタの登場によって、より沢山の人が、アートに触れるようになった。大衆とアートの距離はだいぶ近づいた。
ただ、それは本当の意味で「近づいた」と言えるのだろうか。
アート作品まで出かけて、そこにいる人々の様子を観察していると、彼らは往々にして写真を撮って帰っていく。立ち止まったり、思考をしたりしているようには、見えない人が多い。
現代アートを、「とても好都合な被写体」としてのみ捉えているのではないか?
それでは先ほど私が述べた「目に見えないところ」に想いを馳せることはできない。私はそれが、とても歯がゆい。
現代アートの前に、長い間「対峙」するからこそ、分かることがある。臼田さん的に言えば、「変わる価値観」がある。
それをしないのは、少し勿体無い気もする。
だから、私たちアートイベントのスタッフは、インスタがある今だからこそ、お客さんにとってアートを「被写体→変化のきっかけ」にするためのトリガーになるべきなのだと感じている。
お客さんと、対話する。作品について感じたことを、共有する。
少しでもいい。見る側に、思考させる工夫をするべきだと思う。
■アートを「アート」と言わないべき領域
私がコーカスかもかたーる(大学でやった政策コンテスト、私のコーカスは「アートによって対話を」をコンセプトとしていた)をやっていてひしひしと感じたのは、ひととアートとの間にある大きなへただりだ。
「アートってよくわかんない」「なんかむずかしそ、私そーいうの苦手だし」そういう声が、聞こえまくった。
臼田さんにこの時の私のモヤモヤをぶつけた。「アートを利用して、なにかやろうって考えても、絶対抵抗感というか、離れていく相手が必ずいる。アートはこれだけ素晴らしいのに、なんで迎合されない事があるんだろう」
臼田さんの答えはシンプルだった
「アートをアートとして伝えるから、抵抗されるんじゃない?」
まさしく。簡単な事を私はわかってなかった。
アートをアートとして伝えたらいいときと、ダメな時がある。
より多くを対象に何かをしようとした場合は、その後者だ。
臼田さんは去年の秋、京都の商店街で、急遽赤い小屋を出現させ、地元の人たちとの交流を生み出す「アート」プロジェクトを行った。
でも、臼田さんはそれを「アート」として商店街の人には伝えなかった。「集会場」テンションで伝えたらしい。
結果的にそのおかげか、このプロジェクトは面白い事がたくさん起きて、沢山の人へ笑顔を届けたらしい。
アートをアートとして伝えたならば、ハードルはだいぶ高く感じられるかもしれない。
でもそれを受け手にとって心地よい、馴染みのある言葉として伝えたら、それは受け入れられるものとなる
そうなんだ。
私の中で、静かに糸がほどけた瞬間だった。
ここまでブワーっとしてきた。
まだまだ書きたいことは掘ればいくらでも出てきそうだけれど、とりあえずスッキリしたので、これで終わりにしておく。
とりあえず、アートが好きだ。臼田さん、スタッフのみんな、ありがとう。