みゅーのたわごと

あんまり気張らずにのそのそ続けられたらいいね。

かわいいね、とうわごとのように言われても

ただの可愛らしい女の子という枠にはおさまりたくないの

 

 

わたしは結構厳しめの、女子校出身です

キリスト教の学校だったんだけど。

慎ましく、しなやかで、敬虔な女の子を育てようと

頑張っていた学校でした。

 

でも、当の本人たちにとっては

ジェンダーの概念がない世界 

みんなが、自由に生きていました

 

その学校で、12年間を過ごしました

 

 

 

それが、大学になって、急に。

わたしは、自分のことを、男か女かと問われたら

女と答えます

女としての、女性という性別を、急に自覚するようになった。

 

それはわたしの周りにいた、同級生達もみーんな一緒だったと思う。

だからみんな、おしゃれをするようになって、メイクをするようになって。

インスタで、彼女たちの様子を見るたびに

垢抜けたなあ。可愛くなったなあ。

そうやって、なんとなく、遠くから見ていました

 

でも大事なことは、わたし「も」女子になったこと。

可愛いね、って言われることも増えて

ここは重いから男子に任せとけばいいよ、と言われて

女の子なんだし、って何回も。

 

でもその度に違和感だった

わたしは、なんのための存在なんでしょうか

 

ただ慎ましく、ニコニコ笑って、

可愛らしく佇むだけの存在なんでしょうか

 

わたしに求められているのって、それだけなのでしょうか

 

そのことに、ものすごく嫌悪感を覚えたし、

わたしの価値をそれでとどめたくないって

 

巷で叫ばれている「ジェンダー」についてが

急に身近な問題として、

目の前に現れた気がした

 

 

 

そんな悶々とした思いを胸に、

昨日今日、残暑の作業会に参加しました

参加者はみんな女の子、

デザイン、プログラミング、ライティング・・・

それぞれがそれぞれに自信のある領域を持っている

そんな子たちの集まり

 

「強い・・・」

 

そう感じたの

 

彼女たちは、女であることなんてみじんも考えてなかった

生きていた、そう、生きていたの

自分、という人生を

 

この大きな社会の中で、少しでも、自分の価値を見出すために、

必死に、でもスマートに、水をかいていた

 

 

その姿勢にすごく共感できた

女とか、どーでもいいや。

この世界に産み落とされたのは、

まぎれもない、「女」という記号になんて邪魔されない、

わたしだから。

 

そう思ったのでした。

なんだか、目が覚めたみたい

 

と、いうわけで、

みゅーは生きつづけていきたいなと。

 

この出会いをくれた、さこぽ(@ponpokosapoko)に感謝。

 

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素直にうれしいから、ありがとうって言いたい。

幸せがはね返ってきたよぉ〜。

 

 

おとといのブログ

「私が考えるアート。」

https://mewlog7.hatenablog.com/entry/2018/09/07/220254

 

私が予想していた以上に沢山の人がブログを読んでくれて、反響してくれて、私はすごく嬉しかった。幸せです。ありがとうございます。

 

思い返すおとといの夜...那珂湊で感じたこと、考えたこと、気付かされたことが頭の中にブワーって溜まって、どうしてもそれを溜まったままにしたくなくって、気づいたらブログの画面を開いてました。

とりあえず息するのも忘れて言語化し続けて。時間が経つのなんて気にしなかった。自分の内側にあって、溢れ出してくるなにかに必死に追いつくように、言葉を探して、それを当てはめての繰り返しだった。

 

書き上げて、いつもなら誤字とかないかなってチェックするんだけど、そんなことしてる暇なかった。この時は。すかさず、「公開」のボタンを押してた。すっごーく興奮して、この私の溢れ出したものを、誰かと分かち合いたいって強く思ったの。

 

だから、ツイッターにこういう文を添えて、みんなに届けた。

「本気で書いたから、ぜひ読んでみてほしい。熱量だけでもいいから、感じてほしい。」

 

荒削りなのは分かってるし、読み手が増えれば増えるほど、きっと私の考えを批判したり、問題を指摘する人が出てくるかも知れない。

それでもいい、それでもよかった。なぜか全然怖くなかった。

 

 

返ってきたのは幸せの反応だった。

いつも私のブログを欠かさず読んでくれてるだいすきな人が、いつもの文章とは違う「熱量」を感じたって言ってくれたり

普段あんまり話さない友達が「アートはよくわかんないけど、近づいてみたい!」って言ってくれたり

ブログを元に始まった議論で、私自身新たな発見があったりした。

 

すーーっごく、うれしい気持ちになれた。

 

ビッグなジャーナリストの辰濃和男さんは、「文章の磨き方」という本の中で次のように述べていた。

「誠を込めて書け」

その通りだ。誠を込めた文章は、必ず他人に伝播する。

 

 

でも、まだまだちっぽけ。それも知ってる

私が今回影響したのは、あくまで「自分の手の中の輪と、外の世界のちょっと」。

まだまだだ。

まだまだぜんぜん、たりない。

 

伝えることって、すごく楽しい。だからもっとたくさんの人に、伝えたい。

 

だから、自分を磨かなきゃ。

 

そう思っております。

 

このほんとーに小さな成功体験を、生かしてまいります。

 

でもとりあえず、今は。

ブログを読んでくれた人、言葉を返してくれた人、言葉は返さずとも何かを受け止めてくれた人、本当にありがとうございました😊

 

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私が考えるアート。

アートアート言ってるけど、アートってなんだ。どこに向かってくんだ。

 

私なりに考えたこと、那珂湊でアーティストさんやスタッフのみんなと話したことを、ちょろ。っとまとめてみよう

 

 

■そもそもアートってなんだ?

臼田さんはこう言ってた「アートとは、目に見えるもの以上に、目に見えない何かが飛び込んでくるかどうか」

 

そうだ、そうなんだ

 

例えば、私がこの夏に大好きになった野村在さんの「soul reclaim device」

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はたからみれば、この作品は、30分に1度、上部に設置されたプリンターから、下部の水が張られた水槽へと、インクが垂れていくだけ。ただそれだけ。

 

だけど、私たちはこの作品と向き合う時、ただそのぼやけていくインクという「目に見えるもの」を見ているわけではない。その奥に隠された、作家の思い、思考を汲み取ろうとする。かんがえて、「目に見えないもの」を探すのだ。それが、現代におけるアートだ。

 

 

この世で最初に生まれた現代アートは、マルセル・ドゥシャンが作った「泉」という作品だ。f:id:mewlog7:20180907211929j:image

男性用小便器に、「R.MUTT」と署名しただけ。彼はこれを「アート」として、世に発表した。

でも当時、世の中はそれを受け入れようとしなかった。それどころか、批判さえもした。

 

なぜか。それは、その時代の人々のアートに関する評価軸が「目に見えるものすべて、それだけ」だったからではないだろうか。

 

目の前の風景を、物体を、忠実に表現すればするほど、それは評価された。そういう世界。

 

でも、デュシャンは、そういう世界に一石を投じた。私たちの思考を、「目に見えないなにか」に至るまで引き伸ばしたのだ。

 

 

現代に戻って、例えば、私の好きな李禹煥

彼の作品は、非常にシンプルだ

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(極端に平坦な言葉を使うとすると)大きな板と石だけ。これが作品

 

この作品が、今、世界中で評価を受けている。

「現代」だからだ。

 

今の私たちはもはや、これを「大きな板と石」として捉えたりはしない。彼が実現しようとした、「つくることの抑制」や「余白の美学」をこの作品から「読み取る」のだ。

 

目に見えない何かを読み取る。それが現代のアートなのだ。

 

デザインとは、圧倒的に違う。

 

 

■アートと「インスタ映え

アートと今流行りのインスタは、非常に親和性が高いと感じている。

 

例えば、21世紀美術館レアンドロ・エルリッヒの「スイミング・プール」には、毎日大量に人が押しかけて、作品と一緒に写真を撮るために長蛇の列を作る。ご存知の方、実際に訪れた方も多いのではないだろうか。

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この作品といっしょに撮る写真は、とてもカラフルで、エネルギッシュで、ポップで。まぁ要するに、「インスタ映えがする」。だからみんな来る。10年前には考えられなかったことだろう。

 

そういう意味では、インスタの登場によって、より沢山の人が、アートに触れるようになった。大衆とアートの距離はだいぶ近づいた。

 

ただ、それは本当の意味で「近づいた」と言えるのだろうか。

 

アート作品まで出かけて、そこにいる人々の様子を観察していると、彼らは往々にして写真を撮って帰っていく。立ち止まったり、思考をしたりしているようには、見えない人が多い。

現代アートを、「とても好都合な被写体」としてのみ捉えているのではないか?

 

それでは先ほど私が述べた「目に見えないところ」に想いを馳せることはできない。私はそれが、とても歯がゆい。

 

現代アートの前に、長い間「対峙」するからこそ、分かることがある。臼田さん的に言えば、「変わる価値観」がある。

それをしないのは、少し勿体無い気もする。

 

だから、私たちアートイベントのスタッフは、インスタがある今だからこそ、お客さんにとってアートを「被写体→変化のきっかけ」にするためのトリガーになるべきなのだと感じている。

お客さんと、対話する。作品について感じたことを、共有する。

少しでもいい。見る側に、思考させる工夫をするべきだと思う。

 

 

■アートを「アート」と言わないべき領域

私がコーカスかもかたーる(大学でやった政策コンテスト、私のコーカスは「アートによって対話を」をコンセプトとしていた)をやっていてひしひしと感じたのは、ひととアートとの間にある大きなへただりだ。

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「アートってよくわかんない」「なんかむずかしそ、私そーいうの苦手だし」そういう声が、聞こえまくった。

 

臼田さんにこの時の私のモヤモヤをぶつけた。「アートを利用して、なにかやろうって考えても、絶対抵抗感というか、離れていく相手が必ずいる。アートはこれだけ素晴らしいのに、なんで迎合されない事があるんだろう」

 

臼田さんの答えはシンプルだった

「アートをアートとして伝えるから、抵抗されるんじゃない?」

 

まさしく。簡単な事を私はわかってなかった。

 

アートをアートとして伝えたらいいときと、ダメな時がある。

より多くを対象に何かをしようとした場合は、その後者だ。

 

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臼田さんは去年の秋、京都の商店街で、急遽赤い小屋を出現させ、地元の人たちとの交流を生み出す「アート」プロジェクトを行った。

 

でも、臼田さんはそれを「アート」として商店街の人には伝えなかった。「集会場」テンションで伝えたらしい。

 

結果的にそのおかげか、このプロジェクトは面白い事がたくさん起きて、沢山の人へ笑顔を届けたらしい。

 

アートをアートとして伝えたならば、ハードルはだいぶ高く感じられるかもしれない。

でもそれを受け手にとって心地よい、馴染みのある言葉として伝えたら、それは受け入れられるものとなる

 

そうなんだ。

私の中で、静かに糸がほどけた瞬間だった。

 

 

 

 

ここまでブワーっとしてきた。

まだまだ書きたいことは掘ればいくらでも出てきそうだけれど、とりあえずスッキリしたので、これで終わりにしておく。

 

とりあえず、アートが好きだ。臼田さん、スタッフのみんな、ありがとう。

作品に吸い込まれる時

私は寝転がるのが好きだ。

 

決して怠けてるわけではない。ただ、寝転がっている時の、どんどん自分が接地面に溶けていく感覚が好きなのだ。

 

私は、茨城県那珂湊で開催されているアートイベント・みなとメディアミュージアムのスタッフのひとりである。今回は、お客さんが来るまでの間、「作家の卵になれる卵」という作品の中に寝転がってみたときの気持ちをのこしておきたい。

 

題して、「芸術作品の中に、飽和するほどの時間、寝転がってみたの巻」。

 

この作品は、手でちぎられた無数のダンボールが床に敷き詰められてある。そして、はりこで出来た卵たちが、ダンボールチップの上に並べられているのだ。

 

寝転ぼうとダンボールに一歩足を踏み入れた途端、私は立ちくらみがした。足から伝わる普段とわ全く違う柔らかな感触に驚いたのか、それとも体全体が「聖域」に入ったと感づいたのか。

 

立ちくらみにたえぬき、ゆっくりと卵の方へ近づいていく。そして、体を横にする。全身で感じる古紙のぬくもり。

 

仰向けになったまま、手探りで掴んだダンボールを手に取り、ちぎってみる。ここでは、この行為は「破壊」ではなく「創造」の手段だ。ちぎる事で、壊す事で、作品がどんどん進んでゆく。

 

こうして、ちぎるという創造行為を繰り返しながら、ゆっくりと地面に、正しくはダンボールの破片の中に埋もれてゆく。作品と、一体になっていく。

 

風の音がした。

 

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命は脆弱

自分の手の中で、息を引き取っていく鶏を、ただみてた。

 

みゅーです。

 

屠殺、それは食べるために生き物を殺すこと。

私が人生の中で1度は経験しておきたかったことの一つ。

この夏、フィリピンで、それを経験しました。

 

この経験はインパクトが強くて、いろんな事を整理するまでに時間がかかったけど、備忘録として記しておきます。

 

 

屠殺は、至ってシンプルでした。

 

まず、鶏の首を伸ばし、頚動脈近くに生えている羽をむしり取ります。皮の部分が見えたら、準備は完了。頭を下、体を上にした状態で首のところに包丁を入れ、頚動脈を切り、すべて血を出し切るまで待つのです。

 

たった、それだけ。

 

それだけなのです。

 

屠殺の経験者はよく、「自分が食べているものもすべて命があるとわかりありがたいなと思った」「これからは残さず食べようと思った」と、「食べ物としてのありがたみ」を口にします。

私も、似たようなことを感じるのかしら、と経験する前までは漠然と考えていました。

でも実際やってみたら、全然、そんな事を感じる余裕はなかった。

なぜなら、鶏は、「食べ物」以前に「生き物」だったから。

 

生き物としての鶏の命は、あまりにも脆弱すぎました。

だって、たった一本、頚動脈を切って血を出せば、死んでいくから。たったそれだけで。

なにも、酷い殺し方をしたわけではない。時間をかけて痛めつけたわけでもない。ただ、主要な血管に傷をつけただけ。

 

人間も同じなのかな、そんな事を考えてしまう私がいます。

人間も、いざ死のう(もしくは殺そう)と思ったら、シンプルなやり方でそれは実現可能なのかもしれない。

 

命って、弱くて、脆いんだ。

 

自分の手の中で息を引き取っていく鶏を見ながら、そう確信しました。

 

「命は、いつ無くなるかわからない。だから今ある命を精一杯大切に生きよう」とか、そういう陳腐な結論につなげたいわけではまったくもってない。

ただ、命は弱いものであって、私たちはその虚しい事実を突きつけられながら生きていく以外、すべは無いのだということです。

 

大切な事を教えてくれた鶏。

 

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ヨロコビの表し方

自分にしか生み出せない言葉で伝えて、ヨロコビを共有したいの。

 

嬉しい時、幸せな時、私はよく何かにたとえて相手にそれを伝える

 

そのたとえが(自分で言うのもなんだけど)だいぶ特殊なようなので、ヨロコビのアーカイブとして記しておきたいなと思います。

 

随時更新予定

 

それでは、以下、私の「ヨロコビの表し方」

 

・今ならバク転連続3回転できる気がする

・今3億円のツボ出されたら、買っちゃうくらいに嬉しい

・心がポッピンポッピンする

・・・and more

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背徳感のある深夜の過ごし方

夜がふければふけるほど、自制心ってなくなってくもん

 

こんばんはみゅーです。

 

太陽が沈み夜になると、日中はがまんしてたこと、しても良いかなって思っちゃう

おそるおそるやってみて、自分にすこしの罪悪感と、おおきな快感に似たようなものを覚えるの

 

私は時々、深夜、

「お風呂上がり、紙パックのジュース500mlを飲みながら、なんのためにもならない深夜番組をみること」

をします

 

お風呂から出たポヤポヤした感覚の中、あかあかと電気のついた部屋の真ん中、ドライヤーもろくにかけずテレビの前に陣取って、あまくってキンキンに冷えたジュースを飲む。観るのは、ぼーっとしてても変わらないくらい内容の入ってこない深夜番組。

もう寝れば良いのに、起きて、果汁と一緒にブルーライトを思いっきり浴びることの、なんともいえない「悪いことしちゃってる感」(ちいちゃい)。

 

その時間が、背徳感で私を幸せにするのです。

今日もDoleのパインジュースで、乾杯。

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